竹の音と、鳥の声と・・・甘い香り。
なんとなく疲労した細い身体をゆっくりと起こす。
身に覚えの無い甘い香りにも、何故か気を取られない。
すると、閉められた襖の向こう側から声がした。
「おはようさん。ゆっくり眠れたかよ?」
ゆったりとした口調だが、ミヅキのぼーっとした頭はすっきりと覚めた。
勢いよく布団から立ち上がり、バシンと叩き付けるように襖を開ける。
そこには、相変わらず煙を吸う、昨晩の狐の姿があった。
「元気な奴だなぁ。とりあえず浴衣直せよ。目のやり場に困るだろ?」
狐の指差す自分の足元を見ると、浴衣は大きく乱れていた。
女扱いでもされているようで、少し腹が立ったが、
襟と裾を引き、適当に直し、再び狐の方を向く。
「よし、昨晩ぶりだな。目覚めはどうだ」
「・・・最悪ですよ」
「そうかそうか。」
かっかっか、と笑う狐を睨みつけるように見つめ続ける。
聞きたい事が多すぎて、頭の中では文字が大渋滞を起こし、
数箇所、玉突き事故まで起こしている始末だった。
頭を整理しようと躍起になっていると、昨晩、金縛りに遭う前に見た夢を思い出した。
“こっくりさん”、それは、狐の姿をしていると、噂に聞いた事がある。
呪われたとでも言うのか?だが、自分が十円玉から手を離したのかという所だけ、
記憶に濃い霧がかかっているようで、思い出せない。
「そんなに怯えなくてもいいんだぜ。俺はお前の守り神だ。」
「・・・は?」
「オイ強めだなぁ。まぁ悪くねぇ。」
ミヅキは、一瞬の思考停止の後、渋滞していた言葉達を橋の下へ全てつき落とし、
顔を洗いに洗面所へ向かった。
「おーい、足ふらついてんぞー。大丈夫かー。」
狐は、その行動を訊ねる事も、引き止める事もせず、のんびりと声を掛け、見送る。
顔に滴るぬるま湯を、柔らかい布で拭う。
顔を上げ、正面の鏡を見る。どこも変わりは無い、相変わらずの白い顔だ。
部屋へ戻ると、狐は縁側の方へ移動し、日向ぼっこをしているようだった。
この妖怪、人ン家でゆったりしやがって、と、恨めしくその背中を見つめる。
幼き頃より抱いていた“妖怪”のイメージは今、ボロボロと崩れ去った。
「おう、戻ったか。こけたりしてねえか?」
その声は優しい。こいつは、さっきからどこか言動が妙だ。
人がもう一人間に座れるくらいの距離で狐の隣に座る。
「・・お前、名前は」
「無い。」
「はぁ?」
予想外の返事に、少し声の音量を上げる。
「しょうがないだろ?無ぇモンは無ぇんだ。お前が付けてくれてもいいんだぜ?」
「・・・狐。」
「はっはっは!、そのまんまか!分かりやすいし、まぁいいだろう。」
胡坐をかいた狐の膝に、一匹の雀がとまった。
目を伏せ、その愛らしい雀を眺める狐の横顔は、とても優しいものだった。
この狐からは、妖怪、呪い、幽霊などのおどろおどろしい文字はとても似合わない。
しかし狐の着物の裾からは、足首から先が無い。
「・・足はある。見えねぇだけさ。」
じーっと足元を見るミヅキの視線を感じ、察するように言う。
頭の中が、少しずつ冷静になってきた。
「俺に何を求めてるんです」
「俺は何も求めちゃいねぇよ。お前を守るのが、俺の仕事だ。」
・・どうも胡散臭い。
「これからよろしくな、ミヅキ。」
「お前何故私の名前を・・いや、これから、とはどういう事です」
「そんなに怖がらなくたって取って食いやしねぇよ。言っただろ?俺は守り神だ」
「誰が怖がって・・!」
「まぁまぁ。」
「・・・っ ・・お前の声は、私の声によく似ている・・。」
「そうだろうな、俺は、お前だ。」
「はぁ!?お前いい加減に・・!」
「オイオイ落ち着けと言ってるんだ。」
「これが落ち着いてられるものですか・・!意味の分からない事ばかり!」
掴みかかろうとするミヅキの手を、狐が押さえる。
その手を振り払い、狐の顔を思い切りはたいた。
すると狐の黒い毛には、血が滲んでゆく。
「・・えっ?」
ビンタで血が出る筈は無い。ミヅキは自分の手を見た。
「・・・!」
その指先には、人のものとは思えぬ鋭い爪があった。
「・・・馴染んできたようだな、俺が。」
「な・・・何言って・・・」
まさかこのまま、自分の姿もこの獣のようになるのでは・・?
最悪の未来図が、ミヅキの頭を最高速で巡ってゆく。
そのイメージが押し出すように、瞳からは涙が流れた。
「オイ・・なにも泣く事ぁねぇだろ・・」
「うるさいですね・・混乱してるんですよ。人間歳を取ると、涙腺が脆くなるモンなんです」
「・・・」
狐は、子供のように泣くミヅキを、その大きな腕で優しく包み込んだ。
こうすると、人は落ち着くんだと、どこかで聞いたのだ。
「・・・!」
「・・泣くな、落ち着くんだ・・・愛しい、人の子よ。」
突然の事に力むミヅキを、優しい言葉で制す。
不思議と、ミヅキの力は抜け、つっぱっていた腕をだらりと垂らし、狐の胸に凭れる。
自分でない者の体温を感じたのは、何十年ぶりなのだろう。
この狐の吸う煙の甘い香りは、その着物に染み込み、どこか、懐かしいという感覚をおぼえる。
狐は、ミヅキとお揃いになった鋭い爪が、決して触れぬよう、その大きな手でミヅキの頭を撫でる。
「慌てなくとも、俺のようになったりはしない。お前は、選べるんだ。
俺が、お前にしっかりと分かる言葉で、ひとつずつ、全部教えてやる。安心しろ。」
ゆったりとしたその口調に、眠りそうになってしまう。
とても、落ち着く。
荒んだこの心を制止できる者など、今まで居なかった。
己の性格の悪さは自覚していたが、避けられるようにされるのは、辛かったのだ。
他の者には無くて、この狐にあるのは、ミヅキの心の車輪の隙間に入り込む言葉や余裕か、
ミヅキを包み込む程の、その、大きな身体か―。
「落ち着いたな?」
「・・・ええ。説明してください。」
頭は冷え、涙は止まっていた。
よしっ、と狐は再び胡坐をかいて座り、煙管を咥える。
「俺ぁさっき、“お前は選べる”と言ったな」
「ええ。」
「俺は、お前にこの身体を貸す事で、お前を助ける。」
「貸す・・?」
「そうだ。今、お前は俺に触れたが、お前以外の者は、俺に触れる事はできないし、見えない。逆も然りだ。
俺が何も触れないんじゃあ、お前を助ける事はできないだろ?」
「まぁ・・、貸す、とは、どうやって?」
「そうだな、“変身”、と言ったら分かりやすいか?」
「私の身体がその姿になるんですか!?それは・・ちゃんと戻れるのですか・・」
「ああ、ちゃんと戻れる。その爪と、瞳以外はな。」
「瞳・・?」
「ああ、お前の瞳は今、俺と同じ瞳になってる。ガラス玉みたいで、綺麗だぞ。」
「・・・・なんて事・・・」
「まぁまぁ。・・その細い身体じゃあ、できない事も沢山あるだろ?
言えばいつだってこの身体を貸してやる。」
「・・・確かに、私は生まれつき身体が弱く、弟達が外で遊んでいようと私は部屋の中でした。
・・今だってそうです。ろくに外へ出る事も出来ない。」
「そうか。・・俺がお前に憑いた理由が分かったよ。」
「でも、その姿じゃあどのみち、外を歩くなんて事はできないでしょう。」
「・・・・・ああ・・そうだな。」
狐の瞳は、どこか寂しそうに、家の塀の、更に向こうを見つめた。
「・・・・お前は、人の身体に焦がれたのだろう?」
「・・!」
核心を衝かれた顔で、ミヅキを見る。
そう、狐は、人になり、人と生きる事を渇望していた。
この恐ろしい見た目では、それは叶わない。
「・・分かるさ。お前は、私だ。」
そう言うミヅキの、優しい横顔を見て、狐は、美しい、と思った。
横に座り、空を眺める、この最も人間らしく生きているこの、人の子が、羨ましく、愛おしい。
「ああ・・、そうだな。」
ミヅキと話しているとまるで、自分も人になったような、そんな錯覚をおぼえる。
その感覚は、この世で一番、この心を躍らせる事だった。
「・・・良い、天気だ。」
それは、雲が晴れるような狐の心を表したような、美しい空だった。
「ええ、そうですね。
・・あっ、私、貴方の新しい名前、思いつきました。」
「なんだ?言ってみろ。」
「アマテラス。」
「・・!
・・はっはっは!、同じ名前の神が二人になるわけか!そりゃあいい!」
「でしょう?」
繋がる心と二人に浮かんだ同じイメージに、満足感と幸福感を感じながら、二人は笑った。
「その真っ黒な身体には、似合わないかもしれませんがね。」
「黒い狐は、初めて見るだろう?」
「ええ、そうですね。珍しいものなんですか」
「そうだ。」
ふーん、と素っ気無いミヅキを見て、少し笑う。
ミヅキの言う事する事は全て、“人らしい”と感じられて、
狐には、とても楽しいものであった。